まえがき

この本を手に取ってくださって、ありがとうございます。著者の古池 謙人と申します。神奈川大学工学部で、知的学習支援システム (ITS) や認知科学・知識工学を背景にした研究室を運営しています。本書は、僕の研究室サイト https://koike-lab.org/ からリンクされていて、研究室に興味を持ってくれた学生さん、近い分野の研究室の方々、そして教育 AI に関心のあるすべての人に向けた「地図」になればと思って書きました。

はじめに:この本の作り方について正直に話します

本文に入る前に、どうしても先にお伝えしておきたいことがあります。

本書は大規模言語モデル (LLM) をフルに活用して書かれています。 章構成や枠組み・主張・トーンは僕自身が考えたものですが、各章の文章の起草、文献整理、図の構成、引き合いに出す研究例の集約などには、LLM を相棒として大きく使っています。素のままの僕一人の手で同じ範囲を一冊に編むのは、いまの仕事と時間配分のなかでは現実的ではありませんでした。

それでも僕がこの本を出すことに踏み切ったのは、研究室に入ってくる学部生・大学院生のための教育リソースを、「いつかきちんとした完成品が書けたら出す」と引き伸ばし続けるよりも、多少粗削りでも今のうちに渡しておきたい と思ったからです。理想を待つあいだに、目の前の学生たちは進路を決めなければなりません。地図を渡せないまま船出させるよりは、未完成な地図でも先に手渡したほうが、まだ役に立つ ―― そう判断しました。

ただし、その代償として、本書は論文ほど厳格にはチェックされていません。大事だと思った数字・年号・固有名詞は折を見て確認していますが、すべての記述に査読水準の検証が及んでいるわけではありません。LLM が生成する文章には、もっともらしく見えて事実と違う部分(いわゆる hallucination)が混じります。僕も全編を一字一句精査できているわけではないので、本書のなかには、誤った主張・誇張された数字・出典の取り違え・存在しないシステム名のような嘘が、まだ残っている可能性があります

そういうわけで、お願いと注意を二つだけ書かせてください。

  • 書いてあることをそのまま信じきらず、自分の目で確認しながら読んでください。とくにあなたが研究や授業で本書の主張を引用しようとするときは、必ず元の文献に戻ってください。本書は元の文献を読むためのナビゲーターであって、論文の代わりにはなりません。
  • おかしいと感じた箇所、明らかに事実と違う箇所、説明が不十分な箇所を見つけたら、ぜひ僕まで知らせてください。連絡先は ウェブサイト にあります。あなたが見つけてくれたバグを修正していくことで、本書はだんだん信頼できる地図になっていきます。これは仕様であって、欠陥ではありません。

そしてもう一つ、はっきり書いておきます。本書の内容を、僕がすべて深く理解して書いているわけではありません。各章のテーマには、僕より遥かに詳しい専門家がたくさんいます。本書はあくまで、ある一人の研究者が、近くの研究室の学生に向けて、自分の理解の届く範囲で描いた地図です。「この本を著者がぜんぶ把握している」と思って読まれると、実態とは少しずれてしまいます。

そういう前提で、ゆるく、しかし真剣に読んでもらえると嬉しいです。それでは、本題に入りましょう。

なぜこの本を書いたのか

教育と AI のあいだには、長い歴史があります。1960 年にイリノイ大学で立ち上がった PLATO や、1970 年に Carbonell が発表した SCHOLAR [Carbonell1970scholar]、それに続く SOPHIE といった初期の知的個別指導システムは、「機械が一人ひとりに合わせて教える」という夢を本気で追いかけました。1984 年には Bloom が「2σ 問題」を提起し [Bloom1984]、家庭教師指導群の中央値が一斉授業群の上位約 2% に到達するという衝撃的な結果を示して、「この差を社会全体でどう実現するか」という問いを後の世代に残しました。

2010 年代以降は、Learning Analytics (LA) や Educational Data Mining (EDM) が大きく伸び、学習データから何かを読み取ろうとする方向の研究が盛んになりました。そしていまは大規模言語モデル (LLM) の時代に入り、「ChatGPT が先生になるのか?」という問いを毎週のように耳にしています [Kasneci2023]

ただ、こうした流れを少し離れて眺めてみると、答えを返すこと自体は昔よりずっと簡単になった一方で、学ぶ力を育てる という古い問題は、そんなに進んでいないようにも見えます。問題集を解かせれば点数は上がるかもしれない。LLM に質問すれば「答え」は返ってくるかもしれない。でも、学習者の頭の中で何が起きていて、どこを支えれば学ぶ力が育つのか――この問いに答えるには、技術だけでも、教育論だけでも足りない、というのが僕の出発点です。

そこで本書では、認知科学・教育学・知識工学・人工知能・HCI の知見を 横断する地図 として、教育 AI 全体の見取り図を描こうとしています。地図に通し名があったほうが扱いやすいので、僕は本書のなかで 認知学習工学 (Formalized Cognitive Learning, FCL) という呼び名を仮に立てておきました。これは僕がこの本のために用意した 作業ラベル であって、すでに教科書に載っているような確立された分野名ではありません。あなた自身の研究では、そのまま使ってもよいし、ITS でも AIED でも Learning Engineering でも、自分の文脈に合う呼び名に置き換えて読んでもらって構いません。本書の目的は特定の名前を売り込むことではなく、領野全体に散らばっている論点を、あなたの関心と結びつけられる形で並べ直すことです。

この本のスタンス

最初に正直に書いておきたいのですが、本書は何か新しい "-ism" を提案する本ではありません。同じ問題意識を ITS と呼ぶ人もいれば、AIED、LA、EDM、Learning Engineering、HCAI と呼ぶ人もいます。それぞれの呼び名にはそれぞれの歴史と強みがあって、どれかが「正しい」というものでもありません。

本書では、教育 AI 研究という広い領野を 見渡すための地図 を、いろいろな研究室がそれぞれの位置から眺められるように差し出そうとしています。ですから、ぜひ本書を「受け取るもの」ではなく「一緒に考える叩き台」として読んでもらえると嬉しいです。重要なのは、認知・学習・形式化・支援システムという論点群が、あなたの関心とどう交差するかを掴んでもらうことです。

姉妹編との関係

本書には双璧をなす姉妹編があります。同じ著者による「古池謙人流『研究の進め方』」がそれで、こちらは研究の HOW ――どう問いを立て、どう論文を書き、どう査読と付き合うか、どう研究者として生きるか――を扱っています。本書はその対として、教育 AI / 認知学習工学という分野の WHAT ――何を研究するか、どんな素材・方法・歴史があるか――を扱う本です。

研究室に入ってきた学生さんには、この二冊をペアで読んでもらいたいと思っています。姉妹編は研究室サイト https://koike-lab.org/ からアクセスできます。本書の途中でも、研究のしかたに関わる話題が出てきた箇所では、姉妹編の該当部を案内しています。

想定している読者

研究室サイト経由で本書に来てくれる人を、おおまかに次のように想像しています。

  • 古池研で研究をしようと思っている学部生・大学院生
  • 近接する研究室 (ITS / AIED / LA / EDM / HCI / 認知科学 / 教育学) の学生さん
  • 教育 AI 領域に興味がある社会人・実践者の方々

どの方にも、それぞれの位置から本書の地図を読んでもらえれば嬉しいです。具体的な読み方は、次の「本書の使い方」の章で案内します。

僕自身の研究との関係

僕自身は、知識工学の系譜から ITS を研究してきた人間で、ここ数年は「中間表現」を軸とした学習支援システムの設計を進めています [Koike2026]。本書のなかでも、第 6 章で形式化と中間表現の話をするときや、第 16 章で応用事例を紹介するときに、自分のプロジェクトに少し触れる場面があります。

ただ、本書は「僕の研究の解説書」ではありません。あくまで本書が描く地図の上で、ある一つの実践例 として中間表現アプローチを紹介する、という位置づけです。あなたが、自分自身の研究関心を地図のどこに置くかを考える材料の一つになれば、それで十分です。

謝辞

本書に流れ込んだ視点は、ITS・認知科学・教育工学・知識工学のさまざまな先輩方や同僚との議論のなかで育ちました。とくに、John Anderson、溝口 理一郎、平嶋 宗、堀口 知也、美馬 のゆりをはじめとする研究者の方々の業績から、多くを学びました。本書の草稿に目を通してコメントをくださった方々にも、ここで改めてお礼を申し上げます。

そして、毎日教室と向き合っている先生方、学びの最前線にいる学習者の皆さんに敬意を込めて。本書がその一助になれば、これ以上の喜びはありません。

それでは、ご一緒に始めましょう。

2025 年 古池 謙人