まえがき
この本を手に取ってくださって、ありがとうございます。著者の古池 謙人と申します。神奈川大学工学部で、知的学習支援システム (ITS) や認知科学・知識工学を背景にした研究室を運営しています。本書は、僕の研究室サイト https://koike-lab.org/ からリンクされていて、研究室に興味を持ってくれた学生さん、近い分野の研究室の方々、そして教育 AI に関心のあるすべての人に向けた「地図」になればと思って書きました。
なぜこの本を書いたのか
教育と AI のあいだには、長い歴史があります。1960 年にイリノイ大学で立ち上がった PLATO や、1970 年に Carbonell が発表した SCHOLAR [Carbonell1970scholar]、それに続く SOPHIE といった初期の知的個別指導システムは、「機械が一人ひとりに合わせて教える」という夢を本気で追いかけました。1984 年には Bloom が「2σ 問題」を提起し [Bloom1984]、家庭教師指導群の中央値が一斉授業群の上位約 2% に到達するという衝撃的な結果を示して、「この差を社会全体でどう実現するか」という問いを後の世代に残しました。
2010 年代以降は、Learning Analytics (LA) や Educational Data Mining (EDM) が大きく伸び、学習データから何かを読み取ろうとする方向の研究が盛んになりました。そしていまは大規模言語モデル (LLM) の時代に入り、「ChatGPT が先生になるのか?」という問いを毎週のように耳にしています [Kasneci2023]。
ただ、こうした流れを少し離れて眺めてみると、答えを返すこと自体は昔よりずっと簡単になった一方で、学ぶ力を育てる という古い問題は、そんなに進んでいないようにも見えます。問題集を解かせれば点数は上がるかもしれない。LLM に質問すれば「答え」は返ってくるかもしれない。でも、学習者の頭の中で何が起きていて、どこを支えれば学ぶ力が育つのか――この問いに答えるには、技術だけでも、教育論だけでも足りない、というのが僕の出発点です。
そこで本書では、認知科学・教育学・知識工学・人工知能・HCI の知見を 横断する地図 として、教育 AI 全体の見取り図を描こうとしています。地図に通し名があったほうが扱いやすいので、僕は本書のなかで 認知学習工学 (Formalized Cognitive Learning, FCL) という呼び名を立てておきました。なぜ既存の呼び名ではなく新しい名前を立てるのか、どう既存分野と区別するのか、といった事情は次章 本書の見取り図 でまとめて扱います。本書の目的は名前を売り込むことではなく、領野全体に散らばっている論点を、あなたの関心と結びつけられる形で並べ直すことです。
この本のスタンス
最初に正直に書いておきたいのですが、本書は何か新しい "-ism" を提案する本ではありません。同じ問題意識を ITS と呼ぶ人もいれば、AIED、LA、EDM、Learning Engineering、HCAI と呼ぶ人もいます。それぞれの呼び名にはそれぞれの歴史と強みがあって、どれかが「正しい」というものでもありません。
本書では、教育 AI 研究という広い領野を 見渡すための地図 を、いろいろな研究室がそれぞれの位置から眺められるように差し出そうとしています。ですから、ぜひ本書を「受け取るもの」ではなく「一緒に考える叩き台」として読んでもらえると嬉しいです。重要なのは、認知・学習・形式化・支援システムという論点群が、あなたの関心とどう交差するかを掴んでもらうことです。
本書には対をなす姉妹編「研究の一歩目」があります。こちらは研究の HOW(問いの立て方、論文の書き方、査読との付き合い方)を、本書は教育 AI 分野の WHAT を扱う、という分担です。詳しい読み合わせ方は 本書の使い方 の「姉妹編との読み合わせ」にまとめています。
想定している読者
研究室サイト経由で本書に来てくれる人を、おおまかに次のように想像しています。
- 古池研で研究をしようと思っている学部生・大学院生
- 近接する研究室 (ITS / AIED / LA / EDM / HCI / 認知科学 / 教育学) の学生さん
- 教育 AI 領域に興味がある社会人・実践者の方々
どの方にも、それぞれの位置から本書の地図を読んでもらえれば嬉しいです。具体的な読み方は 本書の使い方 の章で案内しています。
僕自身の研究との関係
僕自身は、知識工学の系譜から ITS を研究してきた人間で、ここ数年は「中間表現」を軸とした学習支援システムの設計を進めています [Koike2026]。本書のなかでも、第 6 章で形式化と中間表現の話をするときや、第 16 章で応用事例を紹介するときに、自分のプロジェクトに少し触れる場面があります。
ただ、本書は「僕の研究の解説書」ではありません。あくまで本書が描く地図の上で、ある一つの実践例 として中間表現アプローチを紹介する、という位置づけです。あなたが、自分自身の研究関心を地図のどこに置くかを考える材料の一つになれば、それで十分です。
本書の限界について
最後に一つだけ、正直にお伝えしておきます。本書は LLM をフルに活用して書かれています。章構成・枠組み・主張は僕自身が考えたものですが、各章の起草、文献整理、図の構成には LLM を相棒として大きく使いました。素のままの僕一人の手で同じ範囲を編むのは、いまの仕事と時間配分のなかでは現実的ではなかったからです。
その代償として、本書は論文ほど厳格にチェックされてはいません。誤った主張・取り違えた数字・存在しない固有名のような瑕疵が、まだ残っている可能性があります。本書を引用・参照に使うときは、必ず元の文献に戻ってください。本書はそのナビゲーターであって、論文の代わりにはなりません。おかしな箇所を見つけたら、ぜひ 僕のサイト から教えてください。あなたが見つけてくれたバグを修正していくことで、本書は少しずつ信頼できる地図になっていきます。